東大総長選はなぜ揉めた?|人事の説明責任と納得感不在が招く組織リスク(2026.10.13)

序章|東大総長選が投げかけた「人事プロセス」への疑問

東京大学の次期総長(学長)選考が話題となっている。教員らの意向投票で1位得票数1,107票、2位得票数553票とダブルスコアの差だった。しかし、最終的な決定機関が選出したのは、2位の藤垣氏であった。
この決定が、学内にとどまらず、メディア、SNS上で大きな議論を呼んでいる。

誤解のないように予め断っておく。本コラムは藤垣氏個人の適性や資質を議論するものではない。また、最高学府である東大が「初の女性総長」を掲げることの持つ社会的な象徴性やメッセージ性を無下に否定するつもりもない。

ここで問うべき真の問題は「人事プロセス上の不全」である。可視化された多数の支持(民意)が存在する中で、それを覆されたこと。覆された事実に対して納得感のある材料や理由が提示されなかったことだ。
人事は本来、関係者や組織の構成員に対して説明ができ、説得できるものでなければならない。今回は東大という特殊な舞台で起きた事象であった。本コラムでは、一般の企業や組織においての「説明責任を欠いた人事」を考察していく。

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第1章|これは「女性蔑視」の議論ではない

今回の選考結果に対して疑問の声が上がると、SNSや一部メディアで「女性蔑視」「男尊女卑」「ガラスの天井」といった言説が飛び交った。しかし、こうした反応は著しく稚拙で、議論を本質から遠ざけている。

まず大前提として、現代の日本社会において、女性であることを理由に制度上、挑戦や権利を直接的に阻む明確な差別制度は存在しない。

海外に目を向けてみよう。
アフガニスタン(タリバン政権): 12歳以上の女子教育や就労を全面禁止。男性後見人なしでの移動も制限。
ナイジェリア北部等(ボコ・ハラム等): 女子学校への襲撃や大量拉致、強制結婚など、暴力によって教育や自己決定権を奪う実力行使。
イラン(道徳警察): ヘジャブ着用を法律で強制し、不適切とみなされた女性を拘束・処罰する身体の自由の制限。

それに対し、現在の日本においては男女雇用機会均等法をはじめ法整備がなされている。東大総長選においても女性という理由で排除される仕組みなど微塵もなかった。

今回の疑問の本質は、決して「女性がトップになることへの反対」ではない。
1,107票対553票という客観的で圧倒的な数字が存在する中で、なぜ2位の候補者でなければならなかったのかという合理的理由が説明されていないことに対する批判なのだ。これは健全なガバナンス論争である。
「女性蔑視だ」というレッテル貼りで封殺すると、人事の透明性が霞んでしまう。制度上の機会が保障されている以上、今回の騒動は差別の問題ではない。純粋な「プロセスの正当性と説明責任の欠如」として捉え直さなければならない。


第2章|プロフェッショナルの世界に見る「適性」と「評価」

組織のリーダーやプロフェッショナルを選ぶ際、見るべき基準は「性別」属性ではない。
問われるべきは、そのポストで求められるパフォーマンスを発揮できるかどうか。「適性」と「実績」である。
属性ではなく適性を基準とする原則は、他のあらゆる領域と比較することでより鮮明になる。

例えばプロスポーツの世界で考えてみよう。
女性がプロになる機会を一方的に奪うことは不当な差別と言える。しかし、男女同じ基準でテストを行った結果、フィジカルやスピードの差によって女性が不合格となるのは正当な能力判定であり、差別ではない。だから、男子チーム、女子チームを区別して募集を行う。
ここに無理やり「ジェンダー平等」を持ち込めば、チームの勝利という目的は崩壊する。実績や実力を無視してジェンダー枠でスタメン枠を割り当てれば、観客がお金を払って見たいプロスポーツを提供できないことになるだろう。

一方で、音楽や漫画、小説といったエンタメの世界には制度的な制約がほとんど存在しない。作者の性別に関わらず、読者や観客が「面白い」「価値がある」と思ったものに対価を支払う。ここでは成果と市場の評価がダイレクトに結びついている。男女が対等に活躍できる分野と言えよう。

▼ 領域別における評価基準と運用の比較

領域機会の担保評価・選考の基準
プロスポーツ性別問わず門戸解放(テスト等の受験)身体的能力・戦術理解・フィジカル
エンタメ・表現(音楽・小説等)制度的制約なし(ペンネーム等で匿名可)作品の質・市場(オーディエンス)の支持
一般組織・人事制度的な参入障壁の撤廃実績の積み上げ・現場の支持・リーダーシップ

ビジネスや組織運営においても同様だ。
必要なのは無理なジェンダー配慮や数値の割り当て(平等)ではない。属性を排除した徹底的な「適性」の評価である。
適性に男女差がないならば、男性であろうと女性であろうと大いに歓迎されるべきなのだ。


第3章|必要なのは「枠の確保」ではなく「機会の確保」だ

近年、企業の間で「女性役員比率」などの数値目標を設定する動きが強まっている。欧州などで「女性枠(クオータ制)」と呼ばれるものだ。
しかし、DeNAの創業者であり、経団連の副会長を務めた南場智子氏は、女性枠や数値目標の強制に対して違和感を表明している。その理由は極めて明確だ。
属性によって「下駄を履かせる(枠で選ぶ)」という行為は、実力と実績でそのポストを勝ち取った女性に対しても極めて失礼であり、その誇りと実績を過小評価させるからである。

「女性枠で選ばれた」という色眼鏡は、登用された本人にとって望ましいものではない。リスペクトを欠くものでもあり、リーダーとしての正統性を根底から揺るがす。
組織が真に取り組むべき課題は、出口での「結果の割当(枠の確保)」ではない。参入段階における「機会の確保」、すなわち以下のような環境整備である。

  • ライフイベントによるキャリア断絶を防ぐ柔軟な就労制度の構築
  • 性別に関わらず誰もが手挙げできる透明性の高い公募・昇進プロセスの確立
  • 管理職・経営者を目指す挑戦者の母数(パイ)そのものを増やす育成支援

制度を捻じ曲げて数合わせを行うのは、現場での実績に対する裏切りに他ならない。本来認められるべき実績まで一緒くたに有耶無耶にされてしまう。
求められているのは「枠の確保」ではなく、誰もがフェアに競い合える「機会の確保」なのだ。


第4章|可視化された「実績の積み上げ」と説明の義務

組織において、人が付いてくる根源とは何か。それは肩書や権限ではない。
その人物がこれまでに積み上げてきた「実績」と「信頼」という不可逆な歴史である。

人事は単なるポジションの配置換えではない。それまでの積み上げに対する評価の可視化だ。圧倒的な実績の積み上げが存在するとき、周囲からの反論は正当性を失う。それほどの重みが「積み上げ」にはある。
東大総長選の1,107票対553票というダブルスコアは、「積み上げや支持」が可視化されたものだ。

もちろん、選考機関が現場の意向投票と異なる結論を出すこと自体は、規程上あり得る。しかし、可視化されたデータや実績の差を覆すのであれば、決定側にはそれを上回る圧倒的かつ客観的な「説明の義務(Accountability)」が発生する。

  • 「なぜその投票を実施したのか」という目的の再定義
  • 「ダブルスコアという支持差を上回る、どのような定量的・定性的な決定的要素があったのか」の具体的提示

これらの問いに対して、「総合的な判断」「コミュニケーション能力」「多様性の尊重」といった抽象的な言葉しか返せないようでは、説明を果たしたことにはならない。説得力のない決定は、受け手に強い猜疑心を芽生えさせることになる。


第5章|説明できない人事なら行うな

選考機関がダブルスコアを覆した明確な理由を語れないと、組織には不協和音が発生することになる。現場には「裏で政治的な意図が働いた」「出来レース」といった噂や陰謀論が瞬く間に蔓延する。
説明できない人事は、組織を不必要な「二項対立」へと発展し、分断させかねない。

  1. プロセスの正当性を問う陣営(説明責任と数字の重みを重視)
  2. 決定や属性を無条件に擁護する陣営(「反対派は時代遅れだ」と批判)

このような不毛な感情的対立が始まると、双方が互いを攻撃するようになる。日本や米国における与野党支持対立と同様だ。
すると、組織のエネルギーは内紛によって急速に消費されていく。

本来、組織のリーダーシップとは、共通の目標に向けて構成員の力を結集させるために存在する。しかし、説得力を欠いた人事は、組織内の協力体制を自ら破壊してしまう。
だからこそ、ロジックを持って周囲を説得できないような人事は、最初から行ってはならない。 説明を放棄した人事は、組織マネジメントにおける敗北と同義である。


第6章|一般組織が東大のような人事を行ってはならない

東大という組織は、「国内最高峰の大学」という特殊事情がある。社会的なメッセージやパイオニアとしての象徴性を優先する「実験的な人事」を行う動機があったのかもしれない。
しかし、一般の企業や組織が「可視化された支持を裏切る人事」を真似るべきではない。それは組織の存続を脅かす決定的なリスクとなる。

一般組織において、説明なき抜擢がもたらす実害は以下の通りだ。

  • 評価制度の形骸化とエンゲージメント低下:「いくら現場で実績を積み、周囲の支持を集めても、上層部の都合や属性の優先で覆される」という無力感が広がれば、社員は愚直に成果を追うことをやめる。
  • 新リーダーの求心力喪失とフォロワーシップの崩壊:「現場の支持を得ていないトップ」というラベルを貼られたリーダーは、権限による命令は出せても、現場の自発的な協力を引き出すことができない。結果として、いかなる改革も骨抜きになる。

求心力のないリーダーを据えた組織が、トップダウンの機能不全から瓦解していった例は、歴史上もビジネス社会においても数多存在する。二世三世社長が会社をダメにするとされるのも、この類と言えよう。
組織の力を最大化させるための人事が、組織を弱体化を招くのでは本末転倒だ。


最終章|「数」を裏切るのなら相応の「覚悟」と「理由」が必要だ

一般の企業や組織における人事もまた、本質的には「大多数の納得(数による支持)」を前提として成り立っている。明示的な投票という形かは別として、現場からの反発が少ない人選を行っているはずだ。
現場の信頼を集め、実績を重ねてきた人間が正当に評価されるからこそ、組織は秩序とモチベーションを保つことができる。

可視化された「数」や「実績の積み上げ」を覆し、別の人間をトップに据えるという選択をするケースもあるだろう。
しかし、その「数」を裏切り、度外視するのであれば、決定側にはそれを押し通すだけの相応の「覚悟」と、全員を納得させる「明確な理由」が絶対に求められる。

「属性による排除のない公平な場」はもちろん必要だ。それを担保した上で、「積み上げられた実績と適性」に基づき、「誰もが納得できる言葉で説明できること」。
この原則こそが、組織をひとつに束ねる原動力となる。


元記事:東大総長に初の女性、藤垣裕子教授 学内投票で2位、選考会議が決定(高校生新聞)