本田圭佑氏の呼びかけが生んだW杯特別対応議論は、進化の一端だ(2026.6.30)

序章本田圭佑氏の呼びかけは日本の労働観を少しオープンにした

元日本代表の本田圭佑氏がXで発した一言は、大きな波紋を呼んだ。

「日本中の経営者の皆さん、すみません。出勤時間の調整を宜しくお願いします」

2026年北中米W杯、日本対スウェーデン戦の平日朝8時キックオフを前にしたこの投稿に対し、家具ブランドCAGUUUをはじめ、GMO、ほぼ日、レベルファイブといった企業が即座に午前在宅や観戦対応を発表した。

一方でSNSでは、「柔軟性のある会社が羨ましい」「サッカーに興味のない人間のほうが多いのに負担が偏る」という肯定・否定の意見が激しくぶつかり合った。
本田氏のポストを受けて八代英輝弁護士が指摘した「新入社員の勧誘にも優位に働く」という言葉も加わり、議論は単なるイベント休暇の是非を超えた。

これは、日本の労働観を少しだけオープンにした瞬間だった。これまでに日本で、このような議論が公に交わされることがあっただろうか?
「個人の事情」として片付けられがちだった有給取得や柔軟勤務が、国民的イベントをきっかけに企業全体の課題として浮上した。
重要なのは、サッカーW杯というシンボルがもたらした、労働観議論の広がりそのものだ。


第1章「W杯休み」が悪なのか?

本田氏の呼びかけに対し、世論は明確に二分された。
肯定的意見はシンプルだ。
「柔軟性のある会社が羨ましい」
平日朝の試合でも社員が観戦できる環境を整える企業に好感が集まり、採用ブランディングとしても効果的という声が多かった。

一方、否定的意見も根強い。
「サッカーに興味のない人間のほうが多いのに」
W杯は国民的イベントとはいえ、南米諸国のように全員が熱狂するわけではない現代日本では、イベント休暇が「特定の趣味優遇」に見え、シフト調整や業務負担を強いられる人々の負担感を無視できないという指摘である。

しかし、本質はW杯に限った話ではない。W杯はあくまで、潜在していた労働環境の課題を一気に表面化させた「フォーカシング・イベント」だったに過ぎない。
興味の有無にかかわらず、「特定の事情で休み(休憩を含む)やすい人が得をする」構造が、従業員間に敏感にし、不満を醸成するのだ。
WBCでも同じように議論を呼んだ過去があるように、これはW杯に限った問題では無い。


第2章職場に潜む身近な「不公平感」

そしてこのW杯特別対応への不満は、実は日本企業で長年言われてきた問題と構造が同じだ。
自主的な「タバコ休憩」がそれである。
タバコとサッカーでは身近度合いが違う、という喫煙者からの意見もあるかもしれない。
だが、W杯のテレビ視聴率が30%超なのに対して、成人(20歳以上)の習慣的喫煙率は14.8%。数字だけ見れば、W杯のほうが多数とも言える。

非喫煙者から見れば、喫煙者は1日数回・数十分の離席で「追加の休憩」を得ているように映る。
その間、電話対応や急な業務が非喫煙者に偏っており、実労働時間の差が生まれているのだ。そして給料は同じ、非喫煙者がその分休めるわけでも無い。
数字上85%の喫煙者が不公平と感じるのは当然と言える状況だ。

こうした「特定の属性や習慣だけが得をしている」感覚は、従業員の不満として日常的に存在する。
それは「推し活休暇」や「イベント休暇」であっても同様だ。一部の人だけが利用できる制度は、利用しない人から「不公平」と見なされやすい。
不公平感は思った以上に身近で、常にあるのだ。


第3章企業は「不公平感」を放置してはならない

不公平感は「ただの感情論」ではない。それは企業経営に直結するリスクである。
心理学の「アダムス公平理論」では、従業員は自分の投入(努力・時間)と成果(報酬・休み)の比率を他者と比較するとされている。
その比率が「自分が損している」と感じると、心理的な緊張が生じ、以下のような行動変化が起きる。

  • 努力の削減(生産性低下)
  • 組織市民行動(自発的協力)の減少
  • 離職意欲の上昇

Robbins, Ford & Tetrick (2012) のメタアナリシス(Journal of Applied Psychology)においては、不公平感がメンタルヘルス悪化、身体的症状、ストレスを増加させることも確認されている。

つまり、これらを放置すれば、
エンゲージメント低下 → 業績悪化 → さらなる離職
という悪循環に陥ることが研究で明らかになっているのだ。

さらに、不公平感は伝染しやすい。
一人の不満がチーム全体に広がり、心理的安全性をも損なってしまう。
結果として、創造性やイノベーションも低下していく。

近年、人材確保が難しくなる中で、不公平感による離職は「見えないコスト」として企業を蝕んでいる。
だからこそ企業は、不公平感を「個人の問題」として片付けてはならないのだ。


第4章特別扱いではなく「お互い様文化」を

今回話題となった「W杯特別対応」や「推し活休暇」は、自社の独自性のアピールできる。
しかし一方で、「一部だけが享受できる」という不公平感を生むリスクもある。

そうであれば重要なのは、誰もが持っている、そしてどの企業でも完備されている有給休暇を、理由を問わず積極的に取りやすい環境にすることだ。

  • 有給取得を「普通のこと」とする文化
  • 半日・時間単位取得の推進
  • 上司が理由を深く聞かない運用

これらを徹底することで、
「労働時間の調整はお互い様」
という風土、社員感情が生まれる。

更に言えば、それは「出産・育児休業」や「介護休暇」、「生理休暇」などについても同様だ。
当然のものを当然に取得できること、その環境を用意することが企業の責任となる。


第5章「休み」はとても重要な経営資源のひとつだ

八代英輝氏が指摘した通り、柔軟な労働環境は採用に優位性をもたらす可能性は高い。
就活生・転職者の多くは「自分らしさを尊重してくれる会社」を求めている。
特に20代ではワークライフバランスを重視する声が強い。約87%がWLBを企業選びの基準に挙げるという調査データ(JAIC「20代求職者の『成長とワークライフバランス意識』について調査」)もある。

また、リアルな社員の声が採用活動として最も強いアナウンス効果を発揮する。

  • 「W杯で有休を使って観戦した」
  • 「推しライブのために中長期休暇を取った」

こうした具体例を採用ページや説明会で積極的に発信することで、「数字だけの取得率」ではなく、生々しい魅力として伝わる。
若い世代は「休める会社=働きやすい会社」と認識しており、こうしたリアル体験談は信頼性を高めるのだ。

さらに、休みやすさが定着すれば、離職率低下や生産性向上という好循環も生まれる。
休みは単なる福利厚生ではなく、人材獲得・定着・業績向上を支える重要な経営資源だ。
企業はこれを戦略的に位置づけ、積極的に発信していくべきである。


第6章中小企業だからこそできるEVP(従業員価値提案)

今回のW杯特別対応は、あくまで施策の案のひとつに過ぎない。
その他にも報酬体系、人事昇進評価、福利厚生、社内レクリエーションなど、多角的なEVP(Employee Value Proposition:従業員価値提案)を構築できるのが、中小企業の強みだ。

中小企業は大企業に比べて資本力で劣るが、
「顔の見える柔軟性」
という武器を持っている。

項目大企業傾向中小企業が活かせるEVP例
休みやすさ制度は整うが運用硬直的経営トップ直裁で迅速調整、個別事情考慮
評価・報酬画一的評価成果+貢献度を柔軟に反映した個別評価
福利厚生メニュー豊富だが画一的「自分の大事なこと休暇」など独自設計
社内文化横並び意識少人数だからこそできる個別配慮と心理的安全性

つまり、中小企業は、提供する商品・サービスと同様に、労働環境・条件の整備においても大企業の真似をするのではなく、
「他社に無い独自性」
を経営戦略として位置づけるべきだ。それが採用格差を埋め、定着率を高める鍵となる。
資本力に頼らないオリジナリティあるEVP構築こそ、中小企業の勝ち筋である。


終章|アップデートされた労働観が、人と業績を引き付ける

多様化が進む現代日本の社会で、全国民が一丸となるイベントなどあり得ない。
だからこそ、
「特定の趣味優遇」ではなく「全員が自分の価値観で休める環境」
が重要となる。

W杯というシンボリックな出来事がもたらした今回の議論は、日本の労働観を少し前進させた。
このような議論が起こったこと自体が、成長なのだ。
この機会を「ファンのためのサッカーの話題」で終わらせず、日本社会の更なる労働観のアップデートを目指して、公平性と柔軟性を両立させた職場づくりを考えていくべきだ。

そして、これらの公平性と柔軟性に配慮し、労働者のエンゲージメントを高めた企業こそ、これから人材を引き付け、持続的に成長していく。

元記事:本田圭佑のW杯日本代表戦めぐる出勤調整依頼 賛同企業続々 GMO、ほぼ日、レベルファイブら柔軟対応(スポニチアネックス