

序章|「学歴なんて意味ない」という言葉の無責任さ
「社会に出たら実力主義なのだから、学歴なんて意味がない」。
この種の言葉は、いかにも本質を突いているように見える。学歴に縛られない自由な時代、肩書きより中身、ペーパーテストより実戦──そうした空気と結びつくことで、なおさらもっともらしく感じさせる。
しかし、企業の採用活動に関して言えば、学歴不要論は無責任だ。
なぜなら、採用は理想論ではなく、限られた時間と限られた情報の中で他人を評価する行為だからだ。
企業は応募者の人生をすべて知ることなどできない。せいぜい履歴書、職務経歴書、数回の面接、場合によっては適性検査。それだけで、「この人は仕事で成果を出せるか」「継続して働けるか」「一定の知的処理に耐えられるか」を見なければならない。
このとき、学歴には確かに意味がある。もちろん、学歴が人間のすべてを示すわけではない。
だが、企業が採用時に見たい情報の片鱗が、学歴にはかなり詰まっているのも事実である。
それを「意味ない」の一言で切り捨てるのは、人物評価の現実を知らないか、知っていても見ないふりをしているだけだろう。
本稿では、学歴信仰に陥るのでもなく、逆に学歴不要論へ流されるのでもなく、採用という現場の現実から、なぜ学歴が重視されるのかを整理していく。

第1章|採用とは「他人を短時間で評価する不確実な行為」である
採用はきれいごとではない。また、確実でもない。
採用の本質は、突き詰めれば、不確実な他人を、短時間で、なるべく低コストに評価すること。
ここで重要なのは、「完全な評価」は最初から不可能だという点である。
人は入社してから変わる。伸びることもあれば、潰れることもある。面接で流暢に話していた人が現場では機能しないこともあれば、目立たなかった人が仕事で急伸することもある。
つまり、採用は本質的に不完全であり、だからこそ企業は精度の高い代理指標を欲しがる。
そして、その代理指標の一つが学歴なのだ。
学歴は、少なくとも「ある程度の競争を通過してきたか」「一定期間、目標に向かって努力を継続できたか」「基礎的な処理能力を備えているか」を、比較的低コストで推定できる。履歴書の一行で、それなりの情報が取れる。
これは採用設計上、非常に大きい。
もちろん、面接でも確認できることはある。受け答え、姿勢、論理性、雰囲気。
しかし面接は、どうしても“その場に強い人”を高く見積もりやすい。短時間の印象、話し方、愛想、雰囲気に引っ張られる。短時間で表現できる人もいれば、面接という特殊状況で力を発揮できない人もいる。
だからこそ企業は、面接の場で見えるものだけではなく、その人がこれまでにどのような過程を通ってきたかも評価材料に入れるべきだ。その意味で、学歴はかなり便利な情報なのである。
第2章|学歴は「7割程度の圧縮された能力データ」だ
学歴を単なる学校名のラベルだと思うと、評価を見誤ってしまう。
企業が学歴を見るのは、「有名大学だから偉い」といった幼稚な身分意識だけではない。実際には、学歴の背後にあるものを見なければならない。
学歴に圧縮されている情報を挙げれば、少なくとも次のような要素がある。
| 学歴に含まれる情報 | 仕事で見たい能力 | 企業側の読み取り |
|---|---|---|
| 一定水準の認知能力 | 理解力・判断力 | 複雑な業務を処理できるか |
| 情報処理の速さ | 対応速度・要約力 | 多量の情報から要点を抜けるか |
| 勉強を継続できる力 | 学習力・習熟力 | 面倒なことでも積み上げられるか |
| 限られた時間で成果を出す効率性 | 時間管理・実行力 | 制約の中で成果を出せるか |
| 競争環境への耐性 | プレッシャー耐性 | 評価環境でも崩れないか |
| 他者と比較される状況での粘り強さ | 改善継続力 | 不利な状況でも踏ん張れるか |
もちろん、これらは100%ではない。学歴だけで性格まではわからないし、仕事観も見えないし、誠実さや対人関係の成熟度まで保証するものではない。
だが、それでもなお、学歴には人物評価に必要なデータのかなりの部分が圧縮されている。感覚的に言えば、7割程度は表現されていると言っても、大きく外れてはいないだろう。
人間の評価には本来、多面的な観察が必要だ。仕事での責任感、対人折衝力、現場での再現性、価値観の相性。こうしたものは、学校名だけではわからない。
だが逆に言えば、それら以外のかなりの部分、つまり基礎的な処理能力やストレスへの耐性、積み上げの履歴は、学歴から相当程度推測できる。
採用とは、ゼロから人間を解読する作業ではない。見える範囲で、確率的に最適解へ寄せていく作業である。
そう考えれば、学歴という“圧縮データ”を捨てる理由はない。むしろ、最初から捨てる方が不合理である。
第3章|学歴は「傾向」であり「確率」だ
しかし重要なのは、学歴を絶対視しないことである。
学歴は有意義な情報だが、万能ではない。あくまで傾向であり、確率だ。
学歴を否定する人たちが、自らの主張の正当性を示すものとして、
「東大卒でも使えない人はいる」
「高卒でも成功している人はいる」
というものがある。
もちろん、この指摘自体は正しい。問題は、そのことをもって「だから学歴は意味がない」と飛躍することである。
それは論理として成立しない。
例外が存在することと、傾向が存在しないことはまったく別の話だ。
背の高い人が全員バスケットボールで成功するわけではない。しかし、だからといって高身長が競技上無意味になるわけではない。競技の特性上、間違いなく高身長のほうが有利となる。
また、体力がある人がスポーツで全員勝てるわけではない。しかし、体力が勝率に関係しないことにはならない。むしろ、体力の有無は確実に勝率には関係している。
学歴もそれらと同じである。
企業が採用で見ているのは、「この人は絶対に成功するか」ではない。そんなことは誰にもわからない。見ているのは、この人が成果を出す確率はどれくらい高いかである。期待値である。
この視点に立てば、「東大でも使えない」「高卒でも成功者がいる」という反論は、議論の本筋から外れている。採用は、例外探しではない。多数の応募者の中から、限られた枠に対して、より失敗リスクの低い人材を選ぶ行為である。だったら、一定の傾向を示す指標を使うのは当然だ。
学歴がなくても成り上がった人物は物語としてたしかに強い。しかし、それは目立つから語られるのであって、目指すべきものではないのだ。大半の成功者は、やはり何かを着実に積み上げてきた人たちである。学歴は、その積み上げの一つの代表形にすぎない。
第4章|エスカレーター型学歴は評価できない
学歴に意味があると言っても、すべての学歴が同じように評価できるわけではない。
むしろ、学歴を見るなら、その“解像度”こそが重要になる。
典型が、内部進学を前提としたエスカレーター型の学歴である。
なぜこれが問題なのか。理由は単純で、学歴評価の核にあるはずの「競争通過」という要素が弱い、あるいは欠けているからだ。外部との比較の中で位置取りをした経験が薄く、難易度の高い選抜を抜けたという情報も弱い。
要するに、能力を推定するうえで一番見たい部分が抜け落ちているのである。
同じ大学名でも、一般入試や明確な競争を通って入った人と、内部進学でそのまま上がった人とでは、採用側が読み取れる情報量はまったく違う。
大学名だけを見て「同じ評価」としてしまう人事は、学歴を見ているつもりで、実は何も見ていない。
乱暴に言えば、採用で何を見るべきかがわかっていないのだ。
もちろん、内部進学がある学校でも、途中で別の競争や積み上げをしている人はいるだろう。しかしそれは、もはや学歴評価ではない。別の評価軸で見るべき話だ。
ここで言いたいのは、エスカレーター型の進学履歴そのものには、学歴評価としての厚みがないということである。
学歴を見ること自体は合理的だ。しかし、大学名だけを雑に見るためにあるのではない。
学歴評価とは、学校名のブランドを拝むことではなく、その人がどういう競争を、どういう過程で通ってきたかを見ることなのである。
第5章|学歴は代替不能な情報では無い
ここまで述べると、「では学歴がない人は評価されないのか」という話になる。そうではない。
学歴は有力な情報だが、唯一絶対ではない。むしろ本質的には、学歴は代替可能な情報である。
事実、中途採用においては学歴よりも実績、経歴が圧倒的に
たとえば、学生のうちに起業して一定の成果を出している。競技や各種コンテスト、様々なオリンピック級の選抜で結果を残している。インターンで具体的な実績を作っている。高度な実務資格を取り、しかもその取得過程に明確な努力と能力が見える。
こうしたものがあれば、極論、学歴に頼らなくても評価材料にできる。
なぜなら、それらは学歴以上に直接的な情報だからだ。
学歴はあくまで代理指標である。「この人はできそうだ」という推定材料だ。
それに対して、起業実績や競技実績、実務成果は、「この人は実際にここまでやった」というより生々しいデータである。うまくハマれば、学歴を凌駕するのは当然だ。
ただし、学歴は代替が可能だからといって、学歴も何も無いことが正当化されるわけではない。
学歴が無いなら、それ以上の何かが必要になるというだけの話だ。
積み上げがないのに「学歴不要」を唱えても、それは実力主義ではなく、単なる余白だらけの履歴書である。
実力主義という言葉は都合よく使われやすいが、本当の実力主義とは、学歴を無視することではない。
学歴よりも強い、より直接的な成果や経験で勝負することだ。そこを履き違えてはならない。
第6章|成功者はなぜ子どもに学歴を求めるのか
「学歴なんて意味ない」と語る人は少なくない。その理由の一つが「学歴が無くても成功した人は多い」というものだ。
だが、そこで一つ冷静に見ておきたい現実がある。
学歴がない状態から社会的に成功した人たちは、ほぼ例外無く自分の子どもを良い学校、良い大学へ進ませようとする。
これは決して偶然ではない。
理由は簡単だ。学歴がないことの不利を、本人が一番知っているからである。
学歴がなくても勝てることはある。だが、勝つまでに遠回りが増える。最初の選択肢が狭まる。信用を得るまでに余計な時間がかかる。毎回ゼロから実力証明を迫られる。
つまり、学歴がないことは「不可能」ではないが、「非効率」なのである。
叩き上げで成功した人ほど、その非効率を体で知っている。
だからこそ、自分の子どもに同じ遠回りをさせたくない。本人は学歴なしで勝ったかもしれない。しかし、その経験を通じて学んだのは、「学歴がなくても成功できる」ことだけではない。
学歴があれば、もっと楽に、もっと早く、もっと広い土俵から戦えたという現実でもある。
ここに、学歴不要論の最大の矛盾がある。本当に学歴が不要なら、成功者は子らにも学歴を求めないはずだ。
だが現実には、良い学校に進学させようとする。これは彼らが建前ではなく実感で知っているからだろう。
学歴とは、実力の代わりではない。実力を発揮するまでのスタート地点を有利にする装置なのだ。
社会はそのようにできているし、そのことを覆い隠す学歴不要論は、若者に対して不誠実だと断言できる。
終章|学歴が全てでは無いが、有意義な情報であるのは確かだ
採用活動時に企業が得られる情報は多くない。履歴書、面接、場合によっては適性検査や課題。その程度で、将来の働きを予測しなければならない。だから企業は、手元にあるあらゆる情報を使うべきだ。学歴もその一つである。
もちろん、学歴が全てではない。人間はもっと複雑だし、仕事は学校の延長ではない。
だが、それでも学歴を捨て置くことはできない。なぜなら、学歴には一定の競争を通過した履歴、継続力、効率、処理能力、比較の中で結果を出した痕跡がかなり詰まっているからだ。
企業の採用担当としては、大学名だけで満足するのではなく、その中身、過程、競争性、代替的な実績まで見なければならない。
手元にある全ての情報から人物評価をする。それが採用の学歴の扱い方だ。
就職希望者側も、この現実から目を逸らすべきではない。
学歴不要論を語るのは、いつも十分な学歴の恩恵を受けてきた、東大卒などの高学歴者だ。彼らは、学歴のバックアップを受けながら、自力だけで成功した気になっている。
そして学歴不要論に踊らされるのは、実際に学歴が無い人たちだ。
つまり、唱える人と聞く人は、立場が違うのが学歴不要論なのだ。
だから、メディアや有識者の「学歴なんて意味ない」という甘い言葉に先導されてはいけない。
学歴が絶対ではないのは事実だ。
しかし、だからといって無意味になるわけではない。もし学歴で勝負しないなら、それを上回る何かを積み上げなければならない。逆に言えば、誇れるものが無いのであれば、最後に武器にできるものが学歴でもあるのだ。
結局のところ、採用は願望ではなく評価である。
そして学歴は、その評価において、いまなお十分に有意義な情報なのは間違いない。
元記事:採用で「学歴重視」の企業が増えている、身もフタもない理由【人事のプロが暴露】(ダイヤモンド・オンライン)