ワークライフバランスという社会命題を炎上材料にするメディアは卑怯だ(2025.10.8)

第1章 「WLBを捨てます」──発言の本意と誤読の構図

2025年、自民党の総裁に選出された高市早苗氏が語った「私はワークライフバランスという言葉を捨てます」という一言が、SNSを中心に炎上した。だが、この発言は本当に時代錯誤だったのか。

実際の文脈を確認すれば、それは単なる「働き方改革否定」でも「労働者の権利侵害」でもない。「私は」という主語が示す通り、決定ではないが凡そ首班指名を受ける立場として、首相としての職責を引き受ける覚悟の表明にすぎない。日本国民としても、「私は自分の生活リズムを第一に、国民のことは生活リズムを害さない程度に考えたい」と言われるよりは、安心できるはずだ。
ところが、メディアはこの部分を恣意的に切り取り、見出しに載せ、煽る形で拡散させた。

もちろん、発言が社会的影響を及ぼすのは避けられない。しかし、発言の「意図」と「伝達された印象」の間にある乖離を読み解かず、即座に「ワークライフバランス否定」と断ずるのは、誠実な言論とは言えない。
むしろこのようなワークライフバランスの取り扱いこそ、社会に誤解と分断を生む。

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第2章 ワークライフバランスとは何か──理念の原点を見失うな

ワークライフバランス(以下WLB)という言葉はすでに一般化している。しかし、その本来の意味や制度的背景は、驚くほど理解されていない

そもそもWLBとは、「個人の人生の充実」や「幸福追求のための余暇」ではなく、労働による過剰な消耗を防ぎ、人間らしく生きるための“労働制度上の権利”として設計されたものである。単なるキャッチフレーズではなく、以下のような理念的出発点を持つ。

  • 労働者の健康と生活の維持
  • 育児・介護などのライフイベントへの対応
  • ジェンダー平等と継続就労の両立

つまり、WLBは本来、強い立場にある者が自らの裁量で取捨選択するための概念ではない。 むしろ、

  • 権限が弱い
  • 生活が不安定
  • 雇用条件が制限されている

といった人々のために存在する“守るための制度”なのだ。
「休みたい人が自由に休める」ではなく、 「休ませない社会にブレーキをかける」のがWLBという言葉の目的である。
だからこそ、これを“自分で捨てる”という発言は、一見すると矛盾に映る。だがそれは、立場による裁量の違いを前提にすれば、成立し得る話でもある。


第3章 立場によって異なるWLB──リーダーと労働者の線引き

ここで重要なのは、WLBの適用は「全員一律」ではないという点である。
労働者と、管理職、そして政治家・経営者のような意思決定層とでは、WLBの意味も重みも異なる。以下にまとめよう。

立場WLBの意味義務と自由
一般労働者健康と生活を守る権利保護対象として制度により支えられる
管理職部下のWLBを守る義務指導と調整の中で配慮が求められる
経営者・政治家自らのWLBを放棄する自由責任と裁量の中で自己判断に委ねられる

たとえば、上司が深夜まで働いていても、それが「自分の裁量」であれば問題ではない。 しかし、それによって部下が「帰りづらい」「休めない」となるなら、それは明確なマネジメントミスであり、WLB侵害の温床となる。

今回の高市氏の発言に戻れば、彼女は「私は働き続けます」と述べたが、翌日の会見では「今日は日曜日ですから、皆さんは休んでください」とも語っている。これは、立場に応じたWLBの切り分けがなされている健全な姿と言える。
WLBの本質は、“全員が一律に休む”ことではない。 選択をすることができる、それが重要なのだ。


第4章 メディアは“燃える言葉”しか見ていない──炎上型リベラリズムの正体

問題は、高市氏の発言のように「切り取れば燃える」素材を、あまりにも安易に扱うメディア側の姿勢だ。
特に昨今目立つのが、炎上型リベラリズムとでも言うべき風潮である。
これは、一見すると社会正義を守るかのように装いながら、実態は「叩けるものを叩く」ことが目的になっている構造である。
そのような姿勢でWLBを取り扱われるのは、推進する立場としても大変に迷惑なのだ。

  • 「WLB」のほか、「差別」や「人権」など、扱いの難しいテーマを、
  • 語られた意図や背景を無視して、
  • 単語だけで裁き、
  • 正義の立場から断罪する。

これはもはやリベラリズムではなく、「理念の消費」である。
本来、WLBは丁寧に扱われるべき社会的基盤であり、燃やしてアクセスを稼ぐための燃料ではない。その線引きが曖昧になることで、

  • 労働政策が誤解され、
  • 指導層が発言を控えるようになり、
  • 結果的に社会全体が思考停止に陥る。

SNSの短文文化に合わせた“断片主義”が、社会的テーマを議論ではなく「イベント化」し、理念そのものを空洞化させてしまっているのだ。多くの関係者が長い間少しずつ積み上げてきた実績や、WLBを本当に必要としている人たち、本来の目的や効果を無視して、対象者(今回は高市氏)に「社会悪」レッテルを貼るだけの道具として消費している。


第5章 メディアの使命──理念を正しく伝える責任

メディアには、ただの権力者叩きだけではなく、制度や概念を正しく扱う責任がある。そうでなければ、メディアの本来の役割である”権力の監視”から逸脱し、メディア自体が社会を恣意的に左右する”権力者”となる。

今回で言えば、ワークライフバランスを「キャッチーな流行語」として扱うのではなく、

  • どのような経緯で生まれ、
  • どんな制度設計に裏打ちされ、
  • どこに適用され、
  • 何のために存在するのか

──を、一つずつ噛み砕いて説明する役割こそが、メディアに課された使命だ。
そのような立場からであれば、今回の件も高市氏の「私は」の意味を恣意的に取り違うことは無かったはずだ。

そして同時に、読者に対しても、

  • 議論の前提となる知識を提供し、
  • 必要な線引きを促し、
  • 分断や敵意ではなく、理解と整理を促すことが求められる。

そうでなければ、WLBも、働き方改革も、ダイバーシティも、 「叩くための言葉」「燃えるだけの言葉」に成り下がってしまう。


第6章 誰かが本当に必要としているものを消費だけするな

ワークライフバランスは、働く人々の生活と健康を支える社会的防波堤である。
そして同時に、リーダーが自らの裁量でそれを放棄する覚悟を示すことも、また責任と覚悟の一形態である。
それを、言葉だけ切り取り、理念の価値そのものを貶めるようなメディアの扱いには、明確なNOを突きつけなければならない。

ワークライフバランスは炎上素材ではない。報道が火をつけ、誰かを燃やすための道具にしてはならない。
ワークライフバランスも含めて、誰かが本当に必要としているものを、自分たちの都合だけで消費して欲しくない。
メディアにはそれを利用するだけではなく、広く知らしめるという本来の役割に矜持を持って頂きたい。


高市早苗・自民新総裁、『ワークライフバランスを捨てます』演説が話題 「初手から時代に逆行」「痺れました」「俺はお断り」(中日スポーツ