初任給額は人材市場への「参加料」、報酬ではないから響かない(2026.7.14)

序章|令和の「金の卵」狂想曲

令和の労働市場において、高卒採用はさながら「金の卵」を奪い合う狂想曲の様相だ。求人サイトを開けば「高卒初任給・月収30万円以上」を提示する企業が急増し、大卒と変わらない、あるいはそれを凌駕する待遇を掲げるケースも目立つ。
長年日本企業を縛り付けてきた「学歴社会」の壁が崩壊するパラダイムシフトの到来か、と色めき立つメディアもある。

しかし、目眩ましのような高額待遇によってエントリー数(応募数)こそ爆増するものの、肝心の「3年以内離職率」に大きな変化はない。
厚生労働省が公表したデータによれば、新規高卒就職者の3年以内離職率は約37.9%。大卒(33.8%)よりも依然として高い水準を維持している。初任給アップに踏み切っても、離職率は変わらないのが現実だ。
なぜ初任給の引き上げは、若手社員の定着にこれほどまでに響かないのだろうか。

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第1章初任給はただの「参加料」に過ぎない

多くの経営者にとって、初任給の大幅な引き上げは「崖から飛び降りるような英断」だ。身を切るような思い、と表現しても良いほどだろう。
これだけの手厚い条件を用意すれば、会社への忠誠心やモチベーションにつながると期待する。

しかし、当の若手社員たちには、ありがたみは極めて薄い。
なぜなら、その初任給は「自分自身の働きや貢献が認められて得たもの=報酬」ではないからだ。その金額は、当人の能力や実績の証しではない。
企業側が横並びで他社の顔色を窺いながら設定した「他社を見ている数字」に過ぎない。

受け取る側からすれば、それは入社して「ただそこに居るだけで自動的にもらえるお金」なのだ。当人的には、他社と入社比較するための単なるスタート条件でしかない。
つまり、高額な初任給とは「その会社に留まる理由」にはなり得ない。激化する人手不足の土俵に立つために企業が支払うべき「参加料」の額面が変わっただけに過ぎないのである。


第2章満足感は「承認欲求」と「報酬」のリンクで生まれる

人間が労働において心理的な満足感や意欲を抱くメカニズムは、心理学者ビクター・ヴルームが提唱した「期待理論」で説明できる。
この理論において、人の動機付けは「自分の努力が成果に結びつくという信念」と、「その成果が確実に報酬に結びつくという因果関係(手段性)」の掛け算によって決まる。
初任給バブルが定着に寄与しないのは、この「手段性」が最初から崩壊しているためだ。本人の働きとは無関係に「降って湧いた」高額な報酬は、努力と報酬の因果関係を希薄にする。

人間にはそもそも、自分の行動や存在を他者に認められたいという強い「承認欲求」がある。
初任給が高くとも、「働きに対する正当な評価」がセットでなければ、自己充足は果たされない。報酬という一要素だけを強化しても、「自分の価値で勝ち取った」という手応え(有能感)がなければ、心理的満足感は不全に陥り、定着のエネルギーには変わらないのだ。


第3章腹充たされれば獅子は動かず

「労働と報酬のリンクの消失」が招く危機は、プロスポーツの世界を見ればより顕著だ。
MLBでは、巨額の複数年契約を結んだ途端にパフォーマンスを落とし「不良債権化」する選手が後を絶たない。その代表格が大谷選手と同僚だったアンソニー・レンドン(エンゼルス)だ。
一生働かなくてもいいほどの超巨額報酬がすでに確定し、「努力と報酬の因果関係」が切れた瞬間、モチベーションを維持できなくなる。

クリエイターの世界でも同様だ。商業的成功や周囲の期待という「外側の枠組み(外発的動機)」に合わせて必死に走ってきた漫画家が、その枠組みが十分に満たされた瞬間に「描く意味」を見失い、長期休載や未完の沼(井上雄彦氏の『バガボンド』や美内すずえ氏の『ガラスの仮面』など)に陥る現象がこれにあたる。

大谷翔平選手や、『ONE PIECE』の尾田栄一郎氏は例外だ。報酬とは無関係に「やりたいこと、達成したいこと」という強固な「内在的動機」を燃やし続けられる者は多くない。

サバンナのライオンは空腹だからこそ命懸けで狩りをする。動物園の檻の中で、約束された食い扶持が目の前にあれば、わざわざ狩りをしない。
ビジネスにおける「静かな退職(Quiet Quitting)」の本質もここにある。最低限の業務だけをこなし、牙を抜かれたように組織に居座る状態だ。そもそも、入社したばかりの新卒社員に、「内在的動機」を求めること自体に構造的な無理がある。
腹を満たされた獅子が動かないのは、人間でも当然の帰結だ。


第4章「属性評価」は年功序列と同じ根っこだ

初任給バブルは「新卒・高卒・若手」というカテゴリ(属性)に対してお金が払われている。「個人の働き」に対しての報酬ではない。

これは、かつて日本企業を機能不全に陥れた「年功序列」と全く同じ病理である。
年齢や勤続年数という属性だけで給与が決まり、「いるだけで自動的に上がる」仕組み。「新卒だから自動的に高い」初任給もまた、「個人の働き不在」という点で根っこは同じだ。

日本には古くから「悪銭身に付かず」という言葉がある。働いた分の給料なのだから悪銭と呼ぶのは忍びないが、自分の働きとリンクしていないという点で、賭け事や富くじ(宝くじ)で得た「悪銭」と大差がない。「生まれた頃合いが良かった」という、受動的な運で手にしたお金だからだ。
まさにこの手の「悪銭(=市場の都合で降ってきただけの高給)」を目当てにする条件比較志向の強い層ばかりを惹きつけるのが、現在の初任給向上の正体である。応募数は増えても、より良い条件が見つかればすぐに移り変わるため、離職率は変わらない。


第5章エンゲージメントを拾いつくしてやれ

企業はどのように若手人材を定着させるべきだろうか。
それは、降って湧いた前提条件だけに頼るのではなく、入社後の「エンゲージメントを細かく拾うシステム」を社内昇進やインセンティブ制度として整備することだ。

新卒社員は、仕事そのものへの深い愛着や内在的動機など持っていなくて当然である。彼らの動機は給与安定性といった「外発的動機」が中心だ。
だからこそ企業が本当にやるべきは、次の2つのアプローチを多層的に走らせることだ。

  • 外発的動機を多層的に強化する:明確な昇給ルートや、成果連動のインセンティブ、福利厚生の充実など、頑張りが物理的に報われる仕組み。
  • 内在的動機を後から「育てる」仕組みを作る:入社後の早期に小さな成功体験を積ませ、「自分の行動で結果が出た」という手応えを与える。仕事の意義を実感させる具体的なフィードバックや、成長を実感できるキャリアパスを用意する。

若手が辞めていく本当の理由は、「自分の頑張りを誰も見てくれない」という承認の飢餓感だ。「報酬」「承認」がセットになって初めて、定着率とエンゲージメントは向上する。

ただし、会社と仕事はどこまで行っても「利害関係」である。始めから「家族」のような情緒的言葉を強調するのは、「滅私奉公」や「やりがい搾取」を狙うブラック企業の常套手段。
貢献にはまず、目に見える報酬で応えること。それがプロとしての第一前提だ。


第6章「今までと同じ」では参加権を失ってしまう

利害関係の前提である以上、中小企業にとって初任給の高騰は深刻なジレンマだ。
「高くしても定着しない」が、かと言って「市場価格より安すぎれば、そもそも他社に競合できず採用の土俵(参加権)すら失う」という現実がある。
時代はもう戻らない。労働市場のベース価格が変化している以上、実業の利益率を向上させ、原資を捻出する覚悟が必要だ。

中小企業が執れる採用戦略は、大きく以下の2つの選択肢、あるいはそのハイブリッドとなる。

戦略タイプ具体的なアプローチメリットリスク・課題
選択肢A:短期の飛び道具成長機会の早期提供、合理的で透明な評価、高い裁量権、目に見える働きやすさの提示人件費を抑えつつ、成長志向の尖った人材を惹きつけられる他社に模倣されやすく、長期的には「チープ化」して限界が来る
選択肢B:中長期の本丸事業全体の高付加価値化、生産性向上、価格戦略の見直しによる「利益率の向上」市場価格以上の初任給を堂々と支払える体力ができ、採用の前提条件を強化できる組織や事業構造の抜本改革が必要となり、時間とコストがかかる

施策をどれだけ尖らせても、大手や他社が模倣すれば優れた施策もすぐに陳腐化する。人の数に頼り続けるのなら、「利益率の向上」は雇用確保の必須条件だ。
選択肢Aという飛び道具で時間を稼ぎつつ、本丸である選択肢B(利益率向上)へ事業をシフトさせていく経営者の覚悟が必要となる。


終章「利害の折り合い」で成る真のエンゲージメント

歴史を振り返れば、英国の貴族階級の多くが、代々引き継いだ広大な土地や資産という「属性に対する報酬」に依存し、自らの努力や生産性と切り離された結果、時代の変化とともに資産を食いつぶし没落していった。
しかしその一方で、一部の貴族は「一家の資産や領地を守り、次世代に引き継ぐ」という明確な当事者意識を持ち、経営や投資という「自らの行動・努力」とリンクさせることで、強いエンゲージメントを持って生き残った。
この差は、現代の雇用関係にもそのまま通じる。

令和の採用活動において、企業がやるべきことは、「参加料の吊り上げ競争」ではない。それは悪銭を求める層を引き寄せるだけの不毛なゲームだ。
「個人の具体的な行動・貢献」と「正当な評価・報酬」の因果関係を合理的に結びつけられるか。
情緒的な欺瞞を排し、プロフェッショナル同士として「利害の折り合い」をデザインすること。
それが、初任給バブルの狂想曲に振り回されず、真に強い組織を築く解なのである。


元記事:「月収30万」高卒協奏曲。生涯賃金6000万円の壁、引き上げても「1ミリも動かなかった離職率」の盲点(Yahooエキスパートトピ